インタビュアー
簡単な自己紹介をお願いします。
安井豊繁
ものづくり推進部の教育研修室でリーダーを務めている安井 豊繁(やすい とよしげ) です。
今回はよろしくお願いします。
今回はよろしくお願いします。
【入社するまでに立ちはだかった様々な壁】
インタビュアー
フジアルテを知ったきっかけを教えてください。
安井豊繁
自分は高校と大学までスーパーのアルバイトをしていました。
大学を中退することになり、もっとお金を稼ぐために倉庫でのピッキングの仕事を始めたのです。
そこには、2年勤めました。
「体力的にはしんどいけど、ピッキングよりは稼げるし、今なら一緒に働けるみたい。」
この言葉がフジアルテと出会ったきっかけでした。
前職の友人にこの言葉をかけてもらい、紹介してもらった工場でフジアルテの派遣社員として働き始めたのです。
大学を中退することになり、もっとお金を稼ぐために倉庫でのピッキングの仕事を始めたのです。
そこには、2年勤めました。
「体力的にはしんどいけど、ピッキングよりは稼げるし、今なら一緒に働けるみたい。」
この言葉がフジアルテと出会ったきっかけでした。
前職の友人にこの言葉をかけてもらい、紹介してもらった工場でフジアルテの派遣社員として働き始めたのです。
インタビュアー
当時の派遣に対するイメージとか覚えていますか?
安井豊繁
いえ、当時は、派遣に対するイメージは特に抱いていませんでした。
派遣のシステム自体知ったのが、これが初めてだったため、そういう物だと受け入れていたのです。
なんとなくではありましたが、この工場で働いているというよりは、フジアルテから派遣で工場勤務していることは理解できていました。
派遣社員として2年ぐらい経った時に、勤務態度などを認めて頂き、社員になりました。
しかし、数年後、リーマンショックによって、フジアルテを退社することになってしまったのです。
そこで挫けず、職業訓練所で1年ほど勉強しました。
その甲斐があってか、卒業直前に以前フジアルテにいた時の担当者から戻ってこないかと声をかけて頂けたのです。
派遣のシステム自体知ったのが、これが初めてだったため、そういう物だと受け入れていたのです。
なんとなくではありましたが、この工場で働いているというよりは、フジアルテから派遣で工場勤務していることは理解できていました。
派遣社員として2年ぐらい経った時に、勤務態度などを認めて頂き、社員になりました。
しかし、数年後、リーマンショックによって、フジアルテを退社することになってしまったのです。
そこで挫けず、職業訓練所で1年ほど勉強しました。
その甲斐があってか、卒業直前に以前フジアルテにいた時の担当者から戻ってこないかと声をかけて頂けたのです。
インタビュアー
一度退職されているとは知りませんでした。このときも社員からスタートしたのですか?
安井豊繁
それでフジアルテで働く事になり、派遣社員から再びスタートしました。
2つの現場で1年ずつ働いた後、私が結婚するタイミングで、ちょうど正社員のお声をかけて頂けたのです。
そこから2年半北陸の現場で勤務した後、大阪の本社の部署に異動して、今に至ります。
現場が長いですが、今の仕事でも活かせることが多くあるため、経験できて良かったです。
2つの現場で1年ずつ働いた後、私が結婚するタイミングで、ちょうど正社員のお声をかけて頂けたのです。
そこから2年半北陸の現場で勤務した後、大阪の本社の部署に異動して、今に至ります。
現場が長いですが、今の仕事でも活かせることが多くあるため、経験できて良かったです。
【自分を支えてくれる2つの経験】
インタビュアー
大変だったことや嬉しかったことはありますか?
安井豊繁
嬉しかったことは、再び派遣スタッフとして最初に勤務していた工場に入った時の事です。
通常1人ではやらないような莫大な業務量を任されたことがありました。
通常1人ではやらないような莫大な業務量を任されたことがありました。
インタビュアー
それは何でですか?
安井豊繁
単純に工場が忙しかったのでしょうが、やはり辛かったです。
半ばやけくそでやっていた部分もありましたが、全部やり切った時に社員の方に褒めて頂けました。
それは今でも覚えているほど嬉しい経験です。
大変だったことは、製造正社員になり、福井県の工場で働いていた時の事です。
周りが日系ブラジル人ばかりの今までと全く異なる環境の中で、頼る人がいませんでした。
何もできないだけでなく、自分の役割もわからなくなってしまい、モチベーションが一気に落ちてしまったのです。
半ばやけくそでやっていた部分もありましたが、全部やり切った時に社員の方に褒めて頂けました。
それは今でも覚えているほど嬉しい経験です。
大変だったことは、製造正社員になり、福井県の工場で働いていた時の事です。
周りが日系ブラジル人ばかりの今までと全く異なる環境の中で、頼る人がいませんでした。
何もできないだけでなく、自分の役割もわからなくなってしまい、モチベーションが一気に落ちてしまったのです。
インタビュアー
どうやっても持ち直していったんですか?
安井豊繁
他の現場から応援があって、自主的な気持ちを持つ余裕も徐々に生まれていったのです。
また、言葉が通じない中でも社員などに頑張ってコミュニケーションを取ろうとしている日系ブラジル人の方が居ました。
彼らとコミュニケーションを取っているうちに、自分が彼らを守っていかなければという意識も芽生えていきました。
派遣の時よりも深く、人との繋がり感じることができた経験です。
これらの経験から学んだこととして、人と関わる際は、誰が相手でも気を遣うことを念頭に、素直な心をもって接することを心がけています。
また、言葉が通じない中でも社員などに頑張ってコミュニケーションを取ろうとしている日系ブラジル人の方が居ました。
彼らとコミュニケーションを取っているうちに、自分が彼らを守っていかなければという意識も芽生えていきました。
派遣の時よりも深く、人との繋がり感じることができた経験です。
これらの経験から学んだこととして、人と関わる際は、誰が相手でも気を遣うことを念頭に、素直な心をもって接することを心がけています。
【自分をみつけた会社の環境】
インタビュアー
フジアルテで学べたことはありますか?
安井豊繁
知識や技術を身に付けられたことは勿論ですが、経営理念ハンドブックの考え方が自分に浸透している感じがします。
インタビュアー
それはどのような意味でしょうか?
安井豊繁
派遣社員として入社した当時は、正直フラフラしていて軸がない時分でした。
そんな状態であれば、周りの人や環境に流されても仕方がないと今では思います。
経営理念ハンドブックのおかげで、自分の考え方や意識が固まりました。
常にハンドブックはカバンの中にあったため、手軽に触れられ、理解しやすい状態でした。
フジアルテの経営理念が自分に合っていただけでなく、環境も良かったのだと思います。
やりたいことは手を上げればやらせてもらえる環境ができているのです。
今の業務も自分のやりたいようにさせてもらえる環境が自己の形成を促進させたのではないでしょうか。
そんな状態であれば、周りの人や環境に流されても仕方がないと今では思います。
経営理念ハンドブックのおかげで、自分の考え方や意識が固まりました。
常にハンドブックはカバンの中にあったため、手軽に触れられ、理解しやすい状態でした。
フジアルテの経営理念が自分に合っていただけでなく、環境も良かったのだと思います。
やりたいことは手を上げればやらせてもらえる環境ができているのです。
今の業務も自分のやりたいようにさせてもらえる環境が自己の形成を促進させたのではないでしょうか。
【これからの自分】
インタビュアー
フジアルテには多くの経営理念がありますが、特に好きな項目とかありますか?
安井豊繁
それは「向上心を持つ」です。
年に1度の会社の方針発表会でこの項目の論文を発表しました。
年に1度の会社の方針発表会でこの項目の論文を発表しました。
インタビュアー
何故、この項目で発表したのですか?
安井豊繁
現場の管理者として勤務していた当時、心が折れてしまったこともありましたが、回復する事ができたのも、向上心があったからだと思います。
自分のターニングポイントになった経験と共感できるため、一番印象が強いのかもしれませんね。
自分のターニングポイントになった経験と共感できるため、一番印象が強いのかもしれませんね。
インタビュアー
今後の目標を教えてください。
安井豊繁
そうですね。先駆者として何か自分にしかできないことをしていきたいですね。
自分はキャリアコンサルタントの資格を取得しているため、それと結びつけた取り組みなどをしていきたいです。
自分はキャリアコンサルタントの資格を取得しているため、それと結びつけた取り組みなどをしていきたいです。
インタビュアー
自分にしかできないことってなんかかっこいいですね。
安井豊繁
他にも、営業同行とかも行ってみたいです。
ものづくりの経験から言えることもあると思うので、何か営業のサポートもできたらと思っています。
どのような取り組みをするにせよ、向上心を持ちながら取り組んで行きたいです。
ものづくりの経験から言えることもあると思うので、何か営業のサポートもできたらと思っています。
どのような取り組みをするにせよ、向上心を持ちながら取り組んで行きたいです。